2008年04月15日

眼が語る、すべて〜「フィクサー」(トニー・ギルロイ監督作品)

とにかく、眼がすごい。眼だけで、彼らはすべてを表現している。ジョージー・クルーニー、ティルダ・スウィントン、トム・ウィルキンソン、そして、三頭の美しい馬。
いったい、どこで間違ったのか。自分は、やり直せるのだろうか。彼らは皆、それぞれに追われる者だ。弁護士事務所で影の仕事を請け負ってきた主人公、マイケル・クレイトンは、まさに追い詰められている。家庭は破綻しかけ、借金はかさんでいる。それでいて、依頼者である大企業の不正を追求するという危ない橋を渡り始めた仕事仲間を切り捨てることは出来ず、揉み消しを目論む上司の命令も跳ねのけられない。そんな彼が、馬たちとの出会いのあとに、断絶しかけた従兄弟と邂逅する場面はあたたかい。それでいて、ラストで見せる表情は晴れやかさとは掛け離れ、エンドクレジットの背景とは思えぬほどに胸に迫る。
さらにこの作品の深みを与えているのは、Jクルーニーの演技とがっぷり組んだ「脇」の力だ。大企業の先鋭として力をふるうティルダが、武装するように身支度をしながら、鏡越しに見せる表情の痛々しさ。正気を失いつつあるトムが、きらめく街のネオンを見上げる時の表情の純真さ。そして、馬たちの澄み切った瞳。
いったい、どこで間違ったのか。はたして、やり直しはきくのか。
そんな問いは、誰しも、一度や二度は自分に投げ掛けるものだ。そのような体験を持つ人ならば、彼らの物語は決して他人事では済まない。日常的な出来事の延長として、ひりひりとした切実さを持ち、心に響くに違いない。

cma

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「フィクサー(原題:マイケル・クレイトン)」
監督:トニー・ギルロイ
出演:ジョージー・クルーニー、ティルダ・スウィントン、トム・ウィルキンソン
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2008年04月03日

色あせぬ十代〜「サード」(東陽一監督)

この映画は観ておいたほうがいいよ、と言われたのは二十代はじめ。それから十年あまり経ち、やっと出会うことが出来た。それでも遅すぎることはない、鮮烈な出会いだった。
せんだいメディアテーク月例上映会『ATG現在と未来#2』において上映された「サード(東陽一監督)」。東監督と同じく日大で映画を学んだ富永昌敬監督(「パビリオン山椒魚」)のトークもおもしろく、非日常であるはずの少年院生活がより日常的で、非行や社会生活の方がふわふわとした非日常にみえるという「ねじれ」から、峰岸徹演じるヤクザのわかりやすさまで多岐に及んだ。思わぬ展開に爆笑しつつも、改めて気付いたこと、考えたことがたくさんあった。いくつかを書き留めておきたい。

1 群像劇が活写するもの
物語は、少年院で淡々と生活する主人公・サードを軸に、サードを取り巻く個性豊かな少年たちと、サードが犯罪に至るまでの経過を描く。トークでは、少年たち一人ひとりにくっきりとしたキャラクターを持たせた描き分けの効果(ニックネームが端的に特徴を表し、(坊主頭ゆえに)混同しかねない彼らの「違い」を際立たせている。また、彼らは皆少年院での性向から名付けられているが、院内生活になじまず距離を保っているサードだけは「中学で野球部だったから」という噂だけで「サード」と記号化され、さらに特化されている。)が話題となった。
元刑務官という経歴を持つ原作者・軒上(城?)伯が描く少年像は驚くほどリアルで、古さを感じさせない。そして、多角的に少年たちを捉えた群像劇という構造が、唸るほどに「効いて」いる。もしかすると、対象となっているのは複数の少年たちではなく、全てひとりの少年が持ちえる多様な側面であり、あえて群像劇とすることで、各側面を丁寧に描いているのではないか?と思われた。
十代は、自我拡散の時期などと言われるように、さまざまな場面・さまざまな時期に、それまで自覚していなかった「自分」が立ち現れる。そして彼らは、新しい自分と折り合いを付けることに追われ、エネルギーを費やす。
「サード」の回りにいる「短歌(いつも短歌で心情や状況を俯瞰するニヒリスト)」「オシ(号令さえ拒否するだんまりや)」「2B(鉛筆をかむことでうっぷんばらしする軟弱者)」「紙飛行機(紙飛行機作りに熱中し、自由を夢見る。)」と呼ばれる少年たち。…実は、少年たち全てが、サードのような扱いにくさ、短歌のような冷めた視線、オシのような不器用さ、2Bのような弱さ、紙飛行機のようなのめり込む姿勢(そして挫折)を持っているのかもしれない。

2 少年なのに「おやじ」?
短歌を詠むのはもとより、ボランティアで来訪した女子大生たちを品定めする少年たちの会話が十代とは思えない等々、彼らの「おやじ」ぶりも話題になった。
あくまで私見だが、彼らの「おやじ」ぶりも、それなりにリアルだと思う。彼らは、一人ひとりは「かわいらしく」歳相応な振る舞いをするが、集団となると一変し、仲間の手前…という思いが先立つのではないか。不良文化に「背伸び」「大人ぶる」という要素があるうえに、人に弱みを見せまい、上に見られたいという気持ちが、上滑りすると「おやじ?」になるかもしれない。さらには、ある意味(非行・犯罪を介して)社会経験が抱負過ぎるため、偏って老成してる場合も考えられる。

3 書き留める意味
短歌でも日記でも手帳でも、折にふれて何かを書き留めるのは、単調に思える一日を記憶に「刻みつける」ための、本人なりのやり方ではないか、とふと思った。内容にかかわらず、書き留める行為そのものに意味があるのだ。無人島に漂着したロビンソン・クルーソーは、何年も何年も、日付を表すナイフの傷を毎日木の幹に刻み続けていた。その姿が、「短歌」と呼ばれる少年に被った。

…ぜひ、映像で・文字で、「サード」に出会ってほしい。それは、かつての自分との再会であると同時に、新たな自分との出会いかもしれない。

cma
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「サード」1977年
監督:東陽一
原作:軒上伯
脚本:寺山修司
出演:永島敏行、森下愛子、島倉千代子、峰岸徹
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2008年03月03日

左目が捉えた蝶の夢〜「潜水服は蝶の夢を見る」(ジュリアン・シュナーベル監督作品)

不思議な明るさと美しさに満ちた作品だ。南欧のからりとした空気と日だまりのぬくもり、吹き抜ける潮風の心地よさを思わせる。残された機能を温存するため、傷ついた右目を縫い閉じられ、視界を半分奪われた時はさすがに胸が痛んだが、全体に漂う深刻さはない。いわゆる闘病ものとはくっきりと一線を画し、リハビリ風景さえダンスのように映し出される。
何より魅力的なのは、主人公の心情と見事なまでに一体化した映像だろう。美しい女性スタッフの胸元の陰影は夢のように甘く、謎めく。スカートの裾はうっとりと揺れる。駆けてくる子どもたちの髪は、せつないまでにまぶしく光り輝く。
そして、ふっと広がるかろやかな空想(もしくは妄想)。中でも私が気に入っているのは、気の利かない看護師にテレビディナーを邪魔され、ため息まじりに思い浮かべる豪華なディナーだ。美しい女性編集者とレストランで「偶然」出会い、二人はめくるめくひとときを過ごす。想像の自由は誰にも奪えない。周りの都合で現実に引き戻されても、彼の作り出すもう一つの世界は、常に現実世界を彩り、彼にいたずらっぽく囁きかける。
彼はもう、愛するものたちに手で触れることはできない。けれども、彼のまなざしは深くそれらをとらえ、惜しみなく愛情をそそぐ。それは、彼にしかできず、彼しか知りえないことがら。…そんな甘美な秘密が、もどかしく、重荷に感じられてしまうときもある。けれども彼には、素晴らしい理解者がいた。
老いて車椅子生活を余儀なくされていた父親と、彼は思いがけず同じ立場となった。一足先に孤独を知った父は、彼をあたたかく受け止め、二人はかつて共に暮らしていた頃以上に互いを思い、心を交わす。そんな父息子の邂逅は、きらめくエピソードの連なりの中でも、特に観る者をゆさぶり、深い余韻を残す。
いつまでも観ていたい。でも、いつでも心の目を開けば観る(思い出す)ことができる。「蝶の夢」は、私たちの日常に連なる、豊かな体験をもたらしてくれる。

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「潜水服は蝶の夢を見る」
監督:ジュリアン・シュナーベル(「バスキア」「夜になる前に」)
原作:ジャン・ドミニク・ボビー
出演:マチュー・アマルリック、アンヌ・コンシニ
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2008年01月23日

映画の魔術師〜ウディ・アレン「マンハッタン」

今死んだら、きっと「巨匠」と称されるであろうウディ・アレン。彼は、ちまちました世界を、ちまちまと描き続けてきた。もう既に、彼独自の世界については語り尽くされているのかもしれない。でも、書き留めずにいられない。やっと私は、彼の魅力の秘密にふれ、発見できた気がしたから。
ガーシュインの名曲「ラプソディ・イン・ブルー」とともに、ぱーっと幕を開ける「マンハッタン」。彼はまたしても、目の前の素敵な恋人とは向き合わおうとせず、届き得ない恋に舞い上がり、振り回される。やっと目がさめた彼が全力疾走したとき、彼をこよなく愛してくれた彼女は、新しい世界へ旅立とうとしていた。彼女は、時が経てば戻ってくると告げ、彼は再会の決意を強く胸に秘める。
…でも、見える。ウディ・アレンに慣れ親しんだ私たちには、彼のその後が、見えてしまう。次作では、間違いなく彼は失恋している。それは一年後かもしれないし、ひょっとすると翌日かもしれない。
たぶん、その原因は彼にある。「ふがいない自分は、彼女との再会に値しない」とのたまい逃げているか、ふっと熱がさめて「どうせ実るわけがない」と勝手に見切りをつけているか、はたまた新たな恋に浮き足立っているか…。
つくづく、恋は盲目。人の性はそう簡単に変わらない。それでも、唯一無二の一途なきらめきを見せる瞬間は誰にでもあるし、映画という世界の中で、夢は永遠に続く。
ウディ・アレンは、私たちに、映画の魔法をちまちまと披露し続けてくれている。それは、なんて素晴らしいことだろう!

cma

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「マンハッタン」1979年
監督・脚本・出演:ウディ・アレン
音楽:ジョージ・ガーシュイン
出演:ダイアン・キートン、マリエル・ヘミングウェイ、メリル・ストリープ
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2008年01月19日

ふたたびの出会いと別れ〜「再会の街で」

いつの間にか、学生時代の友人との間に距離ができていた。毎日のように顔を合わせ、同じ出来事をくぐり抜けていた頃から、だいぶ時間が経ってしまった。
仕事を辞めた、転職した、結婚した、子どもが生まれた、離婚した、再婚した…そんな事実をやり取りしても、そのとき友が何を感じ何を考えていたかは、今の私にはつかみようがない。安易な共感や半端な助言は不要、ということだけはわかるから、せめてもの相づちを丹念に打つ。

この映画で再会する二人・チャーリーとアランも、時の隔たりが生んだ距離に戸惑いつつ、新たな友情を交わしていく。相手のために何かする、という定義は、彼らの友情に当てはまらない。それは、勘違いなお節介や自己満足でしかないから。相手のためと言いつつも、結局は、自分の影を傷ついた友に見い出しているのだ…と、アランは次第に気づいていく。
共に歌う、オールナイトを観る、中華を食べる…そんなひとときは底抜けに楽しい。それでいて、どこか寂しい。朝が来たらさめる夢のように、これは限りあるやすらぎなのか。かすかでも、その後に続く余韻はあるのか…確信が持てない。だからこそ、立ち止まりや沈黙を避けるように、二人は騒ぎまくっていた。
でも、それだけでは何か足りない。

彼らの友情は、「相手に何をする」かではなく、「自分は、相手にとってどんな存在なのか」と、自分の立ち位置を見いだすところに要がある。そこからさらに、「自分には何ができるのか」、に歩みを進めるのだ。
出会い、別れていく二人に吹き抜ける風。キックボードを思い切り漕ぎ出すとき、それはつめたくも心地よく、爽快に違いない。

cma
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「再会の街で」
監督・脚本:マイク・バインダー
出演:ドン・チードル、アダム・サンドラー、リヴ・タイラー
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2008年01月09日

※特報※Nアイルランド映画祭&プレイベント

来月初旬、北アイルランド映画祭が都内で開催されます。
さらに、今週末はプレイベントがw(゜o゜)w
尹慧瑛さんによる、北アイルランドにおける、歴史背景やアイデンティティ・ポリティックスについてなどのレクチャーと交流会とのこと。
要注目ですよ

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N(ノーザン). アイルランド・フィルム・フェスティバル2008
http://www.niff.jp/
会場:ユーロスペース(渋谷)
 http://www.eurospace.co.jp/
日程:2008年2月9日(土)〜2月15日(金)1週間
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N. アイルランド・フィルム・フェスティバル2008
プレイベント 第2弾
曜日:2008年1月12日(土)
【レクチャー】&【交流会】 at space NEO
「北アイルランドという〈場〉―映画の背景とその現在」
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2008年の2月に行われる1週間限定の映画祭、N. アイルランド・フィルム・フェスティバル2008(NIFF=ニフ)のプレイベントとして、第1弾にひき続き、レクチャー&交流会を行います!

2部構成の第1部はレクチャーです。2007年の3月に『暴力と和解のあいだ』を上梓された気鋭の研究者・尹慧瑛さんをお迎えいたします。北アイルランドにおいてどのような歴史や記憶、アイデンティティをめぐる問題があり、それらが人びとが関わりあうときの前提となっているか。北アイルランドの歴史や社会状況の入門編から、尹さんの研究となった「ユニオニズムの自己表象」、そして現在の政治状況や和平合意後の北アイルランドの状況までについて、レクチャーをしていただきます。
解決不可能とまで言われた北アイルランドが和平交渉を重ね、歴史的な自治政府回復にたどりついた、いま。北アイルランドはどうなっているのか、なにが起こっているのか。映画を見る上でその背景、風景を読み解くために、理解をより深めるためにも、とても貴重なレクチャーになると思います。
講師:尹慧瑛(ゆんへよん)さん
論文「北アイルランドのユニオニズムにおける自己表象:「包囲」された「ブリティッシュネス」」にて社会学博士号を取得。日本学術振興会特別研究員、東京外国語大学などでの非常勤講師を経て、現在、一橋大学COE研究員。著書に『暴力と和解のあいだ―北アイルランド紛争を生きる人びと』(法政大学出版局)、論考に「北アイルランド紛争を生きる」(『暴力の地平を超えて』(青木書店)収録)、「いくつもの<分断>を超えてー北アイルランドのエスニック・マイノリティと<社会の共有>」(『<移動>の風景』(世界思想社)収録)などがある。

第2部ではラム肉のシチューやパイ、ブシュミルズを使ったチーズケーキなど(予定)で、団らん交流会を持ちたいと思います。会場のSpace NEOはアットホームな雰囲気でいつもすてきな催しを行っています。おいしい料理とお酒やお飲物で心ゆくまで語りましょう!

曜日:2008年1月12日(土)
場所:スペースNEO
〒101-0052東京都千代田区神田小川町2-10-13 御茶ノ水ビル1F
JR「御茶ノ水」駅・聖橋口より徒歩5分都営新宿線「小川町駅」・千代田線「新御茶ノ水駅」・丸ノ内線「淡路町駅」、B5出口より徒歩1分
http://www.neoneoza.com/information/map.html

ーー第1部【レクチャー】ーーー
「北アイルランドという〈場〉―映画の背景とその現在」
時間:16:00-18:00  (開場:15:30)
講師:尹慧瑛さん
料金:無料
定員:40名
ーー第2部【交流会】ーーー
シチューやパイとケーキをご用意する予定です。
時間:18:00-20:00
(レクチャーや準備の関係で若干時間が変動する場合もございます)
料金:2000円(1ドリンク付き、2杯目以降は300円)

※お席が限られておりますので、【ご予約】をお願いいたします。
1部2部どちらかの参加ももちろん可能です。
大変お手数ですが、参加希望の方はメールかファクスにてご予約ください。
定員になりましたら、お断りする場合もございます。あらかじめご了承ください。

ご予約の方はメール、ファクスに以下をご記載ください。
メール:mail@niff.jp
ファクス:050-1118-9606
件名:1月12日レクチャー/交流会予約
1:お名前(複数名でご希望の方は、参加される方のお名前をご記載ください)
2:ご連絡先(電話番号又はメール)

主催・お問い合わせ:N. アイルランド・フィルム・フェスティバル2008実行委員会
Tel & Fax: 050-1118-9606
E-mail: mail@niff.jp
Web: www.niff.jp
協力:スペースNEO
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2008年01月03日

※追伸※…限りなく私的な「2007年・映画あれこれ」

<("O")>
あ!何と言うことか!大切なたいせつな作品を忘れておりました。
「河童のクゥと夏休み」
…観てよかった!観逃さなくて本当によかった!と、にこにこしながら夜道を帰ったことが思い出されます。なぜか21:40開始のレイトショー上映だったので…(^^;)
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2007年12月31日

限りなく私的な「2007年・映画あれこれ」

いつの間にか、年の瀬です。
行きつけの映画館に、「今年のベストテン」投票用紙が並ぶ時期になりました。用紙には、一年間の上映作品がずらりとリストアップされ、自分自身の映画生活を振り返る機会でもあります。
さて、私のベストテンは…
これだけ並ぶと、作為や贔屓は通用しません。ぐぐぐっと絞り込んだはずが、10本は軽く越えてしまいます。そこから、泣く泣く消去法で削ると…意外のような、納得のような作品群が現れました。
今年の特徴は、ドキュメンタリーの多数ランクイン!です。中でも忘れがたいのは、↓
「100万ドルのホームランボール」。
オークションで高値で落札されるというホームランボール。実際にキャッチしたのは誰だったのか?メディアの加熱を背景に、争いは裁判にまで持ち込まれます。…人間ってつくづくせこいなーと思いながらも、笑う・憤るだけでは済みません。遠い世界の話のはずが、何だか身につまされるものがありました。いわゆる小粒の良品には、大作にはない親密さがあり、だからこそぐっとくるのかもしれません。そして、愛すべき作品↓
「デート・ウィズ・ドリュー」。
ドリュー・バリモアが大好き!デートできたら最高!という熱意だけで作られたセルフドキュメンタリー。打算が感じられないところがスバラシイ。一歩間違えるとストーカーなのに…不思議です。ドキュメンタリーならではのラストにも恵まれ、こちらまで幸せな気分になりました。そして、至福といえば、↓
「スクリーミング・マスターピース」。
ビョーク観たさ・聴きたさだけで観たものの、アイスランドの懐の深さに打たれっぱなしでした。久しぶりに、「このまま終わりがこなければいい…ずっと観て・聴いていたい…」と思った作品。「アイスランド人はロマンティックだ。頑強な海の男でありながら、一節の詩に涙する」という言葉が印象的でした。
あ、音楽といえば。↓
「善き人のためのソナタ」
も、茫然とするほどに揺さぶられた一本。音楽ってすごい!映画ってすごい!と痛感させてくれました。決して声高でない語り口が、物語に深みを与えていました。ドイツ映画は今後も要注目!

そして、たくさん観たはずが、フタを開けてみたら少なかった邦画。貴重?な二本は↓
「キサラギ」「天然コケッコー」はでした!
…とはいえ、個人的には「天コケ」は、「松ケ根乱射事件」とセットのランクインです。表裏の関係と言いますか…。どちらが裏(毒)か、つきつめようとすると意外と考え込んでしまいます。天コケの「ヘンさ」「かっこわるさ」「居心地悪さ」も、「さわやかさ」「愛らしさ」と同じくらい好き!なので…。松ヶ根もこわいけどいとおしい、と思えます。
「キサラギ」は、とにかく俳優を堪能できた作品でした。「クローズ」に連なる小栗旬の躍進を確認できました。

忘れていけないのは、女性を描いた見応えある作品群。↓
「あるスキャンダルの覚え書き」「ブラックブック」「華麗なる恋の舞台で」…。
酸いも甘いもかみわけた、愛憎・善悪入り混じるヒロインたちは、どれも鮮烈な印象を残しました。単純に「彼女をめざしたい!」なんて言えない、それどころか理想像には到底ならないようなヒロインも。…それなのに、どこか自分と切り離せないのは、同性の特権でしょうか?

意外なひろいもの?!と言えば↓
「スモーキン・エース 暗殺者がいっぱい」
ドタバタしたアクションものを想起させる邦題と予告で不当な扱いを受けたのでは…と、今も気がかりです。文字どおり、掛け値なしに良質な「B級」映画。たぶん、レンタルショップでもひっそり居残り組なのでは…幸運にも目に留まった際は、チャンスを逃さず是非ご覧ください。得した気分になること請け合いです!


…と、並べてみても、まだまだ取りこぼしはあるわけで。再度駆け足で拾ってみると…↓
「明日へのチケット」「気球クラブ、その後」「上海の伯爵夫人」「それでもボクはやってない」
「フリージア」「あなたになら言える秘密のこと」「ストロベリーショートケイクス」「キング罪の王」「龍が如く」
「黒い眼のオペラ」「ブリック」「バベル」「ラブソングができるまで」「パッチギ!ラブ&ピース」
「日が暮れても彼女と歩いてた」「傷だらけの男たち」「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」「恋する日曜日〜私、恋した」「赤い文化住宅の初子」
「鰐」「街のあかり」「マストロヤンニ甘い追憶」「タイムトリップ」
「リック・ソルト 僕とばあちゃん」「ブレイブ・ワン」「キャンディ」「レディ・チャタレー」「コータローまかりとおる!(再映)」「飢餓海峡(再映)」「この道は母へとつづく」
…と、あとからあとから出てきます…
いくつかは本ブログにて取り上げましたので、覗いていただけたら幸いです。
それでもなお、くどいのを承知で特筆しておきたいのは、↓
「気球クラブ、その後」。
こうしてタイトルを打ち込むだけで、映画の断片が鮮やかに脳裏に蘇り、胸がしめつけられるような、ふわっと解き放たれるような…何ものにも代え難い気持ちになります。大学サークル・気球クラブに属していた人々の、おわりとはじまりを描いた作品。「紀子の食卓」に続き、園子温監督そうきたか!でした。あまりにリアルなのに、痛々しさを突き抜け、神々しささえ醸し出す彼ら。ありがとう、と言いたくなります。そして、いつかは私も彼らのように「ひこうきぐも」を熱唱してみたいです。

………
うーん。今年も素晴らしい映画にたくさん出会えました。心から、感謝。

cma
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2007年12月26日

母探しの旅を経て、彼は〜「この道は、母へと続く」

子どもが、母を求め探す物語。…ありふれた題材だ。だからこそ、ごまかしがきかない。そして、奥が深い。
裕福なイタリア人夫婦に買われ、養子となることが決まった6歳の少年・ワーニャ。必死で字を学び、実の母の手がかりとなる書類を手に入れ、孤児院を抜け出す。物語前半に繰り広げられる逃避行は、のうのうと・高見の見物を決め込んでいたはずの観客(私だ)を、ぐいぐいと惹きつける。いつしか、かたずを呑んで観入ってしまう。
危なげであったはずの彼の足取りは、いつしか「逃げる」から「進む」ものに転じていく。あどけないばかりであった彼が、次第に、たくましく、力強い表情を見せ始める。…そう、母探しの物語は、極上のロードムービーでもあるのだ。
そんな彼が出会う人々も、あくまで「脇」に徹しながら、いずれも忘れ難い印象を残す。彼らの佇まいが、十分にそれぞれの物語を示し、幾重もの光となってワーニャの物語を支えているのだ。養子になり損ねたまま歳を重ね、徒党を組み悪行を繰り返して生きている少年たち。少女は売春で身を立てているが、少年たちはおろか、院長さえ黙認している。売買の先棒を担ぐ院長、仲介人の女とその運転手、ワーニャが旅で出会う大人たち。…表面的な善悪の差こそあれ、彼らは精一杯生きている。余裕はないけれど、あきらめていない。だからこそ、なりふりかまわず、それぞれの道をゆく。

…ワーニャの物語に戻ろう。軟弱な観客(私だ)は、幕切れが近づくにつれ、涙を絞るほどの大仰なクライマックスであっても喜んで受け入れよう、などと気に迷いが生じ始めた。お涙頂戴、大いにけっこう!ワーニャは本当によく頑張った、報われて当然!と。…しかし。映画の「眼」は、最後までくもり揺らぐことなく、少年の物語を描ききった(抑制のきいた語り口は、なんと能弁なのだろう!)。ワーニャの未来は、決してばら色ではない。けれども・だからこそ、「そこ」に至るまでに様々な人々が垣間見せたあたたかさがいつまでも温もりとして残る。そして、旅の中で、自らの意志で進むことを知った少年に、一筋の希望を見いださずにはいられない。
cma

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「この道は母へと続く」
監督:アンドレイ・クラフチューク
脚本:アンドレイ・ロマーノフ
出演:コーリャ・スピリドノフ
※2005年ベルリン国際映画祭少年映画部門グランプリ
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2007年11月28日

彼女と、彼女が愛した街の闇〜「ブレイブ・ワン」

これは、単なる復讐劇ではない。ふたつの葛藤と選択の物語だ。ぞっとするほど暴力的あると同時に、味わい深く知的で、はてしない静けさと悲しみにあふれている。
突如事件に巻き込まれ、恋人を失い、自身も重傷を負ったヒロイン。はじめは護身のために手にしたはずの銃が、次第に彼女をエスカレートさせてゆく。そんな彼女に近づいていく刑事は、彼女がいくつもの事件に関わっていると感じながらも、親近感を強めていく。法の番人としての職務に対するもどかしさも相まって、彼もまた、悩み、ゆれる。(刑事と犯罪者の間でそんなことはありえない、刑事に私情は禁物だ、私的関係と切り離すべきだ、なんていうのは野暮だ。現実では避けるべき状況に身を落としてこそ、物語は光を放ち、その生々しさに私たちは引き込まれるのだ。)
彼女たちの関係はもちろん、ニューヨークという街のあちこちで繰り広げられるやり取りは、間接的であり、一方通行だ。時にはすれ違い、空中崩壊する。ニール・ジョーダン監督は、鏡やガラスに映る姿とその視線の絡まり合い、ラジオの音声を双方向性(DJであるエリカの語りが、刑事が聞き入るラジオのスピーカーにスライドされる)、異なる人物による同アングルのなぞり直し(第2の事件直前のエリカの眼を店の陳列棚越しに捉えたのと同様に、事件捜査に訪れた刑事の眼を捉える)などを駆使する。言葉を介さずに交わされるコミュニケーションは、時に深く相手に響くが、その消極性とあいまいさゆえに、自分自身への問い掛けともなる。
相手に伝えたいと思っても、きちんと伝えられるのか、受け入れられるのかという不安がつきまとい、彼女たちは踏み出せない。言葉による制止もむなしく事件に巻き込まれたエリカが、ラジオの電波にのせて心情を吐露する姿は、あまりにも痛々しい。その一方で、一線を越えた彼女をそっと気遣う隣人の言葉は、ありふれているのに、あたたかく、胸をしめつける。
エリカが、伝えたい相手に、伝えたいことをまっすぐ伝えられるようになる日。それこそが、エリカの闇が晴れる第一歩、なのかもしれない。

〜〜〜
「ブレイブ・ワン」
監督:ニール・ジョーダン(「クライング・ゲーム」「ことの終わり」「ギャンブル・プレイ」)
出演:ジョディ・フォスター、テレンス・ハワード
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