2008年06月28日

日蔭で生きるということ〜「接吻」万田邦敏監督作品

日蔭で生きていくことの難しさ。
「UNLOVED」から、万田監督が丁寧に描き続けていたテーマはこれだったのか、と改めて思った。女は、共に日蔭で生きていく男を捜し求めていた。しかし男は、愛に気付いた途端、日蔭から抜け出そうと揺らぎ始める。それは、ひとえに女のためであり、二人で生きていくため。二人のすれ違いは決定的で、あまりにも溝は深い。
女の愛は、揺らがない。相手のために何かしたいと思うとき、相手は何をしてほしいのかを考える以前に、自分がしたいこと・やるべきと思うことをやりぬく。身勝手だ、無茶だと言われることは承知の上だ。そんなことは、たいしたことではない。
一方男は、きっと相手はこうして欲しいはず、こう望んでいるはずと思い込み、確認を取らぬままに確信し、決断してしまう。女とはまた違う質の身勝手さがあり、(多分、女以上に)自覚が足りない所も厄介だ。
接吻のヒロインの凄さは、男から去るでも、繋ぎとめるでもないところにある。彼女は、男の分まで、日蔭で生き抜こうとする。と同時に、男への愛も貫き通す。

「接吻」で痛感したのは、個人的な恋愛観以上に、世間に流布する価値観の壁だ。私たちは、知らず知らずのうちに、いかに限定された「あるべき姿」を強要されているか。競争や勝ち負けの場から下りることを個人が選んでも、周囲がそれを許さない。じわりじわりと追い詰め、執拗に「あるべき姿」への復帰を迫る。むしろ、大勢側にいる者ほど、得体の知れない(たぶん、実体もない)影に怯え、同類を求めずにはいられないのだろう。
男も女も、一人で生きているうちは、自分が選んだ生き方を守り抜いていられた。日蔭者であることと、一人で生きることはイコールではないはずだ。それなのに、日蔭者同士が二人で生きていく道は、見い出せない。それは、日蔭者ゆえの必然なのか、日向者の理由なき圧力なのか…。
映画は、最後まで緊張感を保ち、圧巻のラストを描ききる。(増村保造監督が生きていたら、きっと、この映画に嫉妬しただろう。)女は連れ去られ、そこには、安らぎを得た男と、置いてけぼりを食った男が残った。

物語は、始まったばかりだ。


cma

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「接吻」
監督:万田邦敏
出演:小池栄子、豊川悦史、仲村トオル
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2008年06月09日

少女に、恋人たちに、時は流れる(「つぐない」ジョー・ライト監督作品)

ベストセラー小説の映画化、と聞いて過剰な期待は持たずに観た「つぐない」。どうしてどうして、しばらく茫然としてしまうほど、うれしい不意打ちに遭った。
時間軸をすり替え、異なる視点で同じ事柄を描いて見せるのは、最近の映画ではおなじみの手法だ。けれども、時代ものではいまだ新鮮さがあり、物語はいきいきと躍動する。さらに、流れるような旋律と胸の鼓動のようなタイプライターの音が絡み合い、緊迫感を高める。…そして遂に、事件は起きた。
一途ゆえに残酷なあやまちを犯す妹を演じた少女シアーシャ・ローナンが、文句なしにすばらしい。そのまなざしと立ち居振る舞いに、幾度となくはっとさせられ、時にはぞっとさせられた。加えて、この映画が幸運なのは、成長した彼女の演じ手にも恵まれたことだ。得てして、魅力を存分に放っていた少女ほど、成長につれて、残酷にも生来の輝きは失われてしまう。それは誰のせいでもない。本人も、それを自覚し、受け入れて生きていくほかない。(そんな成長した彼女を体現したのは、フランソワ・オゾンの新作「エンジェル」で主演したロモーラ・ガライ。前作同様、そこに立っているだけで「その人」とわかる存在感は秀逸。唯一無二と言いたい。)成長した少女はもう、激情にかられることはない。兵士の孤独な死も、醜くも華やかな婚礼も、無言のまま、目を見開いて受け止める。
映画の力が存分に発揮されているもう一つの点は、恋人と引き離され兵士となった彼が辿り着く、海辺の情景だ。カメラは、さまよう彼の視点さながらに揺らぎつつも、広がりあるフレームを最大限に生かし、ブリューゲルの絵画のように緻密に、戦争というものを描写してゆく。安堵か不穏の前兆か、奇妙な静けさと霧が、じわじと惨状を覆い、生気を奪う。爆音や炎以上の説得力に、ただ圧倒された。

…それぞれの時を必死に生きた彼らの物語は、突然中断する。失われた結末を取り戻し得るのは、時間の前ではどうしようもなく無力な人間に与えられた、想像力という力のみだ。

cma

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「つぐない」
監督:ジョー・ライト
原作:イアン・マキューアン
出演:キーラ・ナイトレイ、ジェームズ・マカヴォイ、シアーシャ・ローナン、ロモーラ・ガライ、ヴァネッサ・レッドグレイヴ
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2008年05月13日

石油とブラームス(「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」ポール・トーマス・アンダーソン監督作品)

その時、ブラームスの旋律が高らかに響いた。美しいがどこか滑稽で、空恐ろしい。心の隙にすっと入り込み、容赦なく切り込む。そんなブラームスの音楽が、作品世界にぞっとするほどかみ合っていた。
ブラームスは不思議だ。学校の音楽室に飾られている姿は、重々しく気難しいドイツ人。確かに彼は、交響曲を4曲しか残さない、こだわりの人・寡作の人であった。それらはいずれも研ぎ澄まされて美しいが、たとえば一番は暗く思い予感を、二番は天上の音楽とも言える甘美なやすらぎを湛えている。いずれも、どこか浮世離れしているのだ。繰り返し聴くほどに味わいが深まり、ふと断片を耳にしただけで手が止まり我を忘れ、たちまち引き込まれてしまう威力がある。(ちなみに、誰もが口ずさめであろうハンガリー舞曲や「ブラームスの子守唄」も彼の作品だ。)
石油を掘り進め、石油だけを手掛かりに生きていく主人公は、すべてを圧倒し、駆逐する。宗教を手段にのしあがろうとする若者の小悪党ぶりが、彼との対比でさらに薄っぺらに見える。物語が進むほどに、主人公のやり口に快哉し、若者を軽蔑したくなるのはなぜだろうか。
彼は、比較の世界を生きていない。自分を他人と比べて優越感を持つことも、うらやむこともない。蹴落とすことも、勿論ない。自分の進む道に、何か邪魔があれば例外なく取り除く、ただそれだけのことだ。振り向くことなく、深く深く進むのみ。地上の光が届かなくなっても、手元を照らす明かりさえあればいい。広い世の中ではなく、閉塞した底無しの世界を、分け入るようにして彼は生きていく。
やわな心をささくれ立たせる彼の存在は、ブラームスの音楽のように触れる者を蝕む。けれども、それは彼の預かり知らぬことだ。今もなお彼は、地核に迫らんばかりに、地底を深く深く掘り進んでいるに違いない。

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“there will be blood”
監督:ポール・トーマス・アンダーソン
出演:ダニエル・デイ=ルイス、ポール・ダノ
※アカデミー主演男優賞/撮影賞 受賞
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2008年04月15日

眼が語る、すべて〜「フィクサー」(トニー・ギルロイ監督作品)

とにかく、眼がすごい。眼だけで、彼らはすべてを表現している。ジョージー・クルーニー、ティルダ・スウィントン、トム・ウィルキンソン、そして、三頭の美しい馬。
いったい、どこで間違ったのか。自分は、やり直せるのだろうか。彼らは皆、それぞれに追われる者だ。弁護士事務所で影の仕事を請け負ってきた主人公、マイケル・クレイトンは、まさに追い詰められている。家庭は破綻しかけ、借金はかさんでいる。それでいて、依頼者である大企業の不正を追求するという危ない橋を渡り始めた仕事仲間を切り捨てることは出来ず、揉み消しを目論む上司の命令も跳ねのけられない。そんな彼が、馬たちとの出会いのあとに、断絶しかけた従兄弟と邂逅する場面はあたたかい。それでいて、ラストで見せる表情は晴れやかさとは掛け離れ、エンドクレジットの背景とは思えぬほどに胸に迫る。
さらにこの作品の深みを与えているのは、Jクルーニーの演技とがっぷり組んだ「脇」の力だ。大企業の先鋭として力をふるうティルダが、武装するように身支度をしながら、鏡越しに見せる表情の痛々しさ。正気を失いつつあるトムが、きらめく街のネオンを見上げる時の表情の純真さ。そして、馬たちの澄み切った瞳。
いったい、どこで間違ったのか。はたして、やり直しはきくのか。
そんな問いは、誰しも、一度や二度は自分に投げ掛けるものだ。そのような体験を持つ人ならば、彼らの物語は決して他人事では済まない。日常的な出来事の延長として、ひりひりとした切実さを持ち、心に響くに違いない。

cma

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「フィクサー(原題:マイケル・クレイトン)」
監督:トニー・ギルロイ
出演:ジョージー・クルーニー、ティルダ・スウィントン、トム・ウィルキンソン
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2008年04月03日

色あせぬ十代〜「サード」(東陽一監督)

この映画は観ておいたほうがいいよ、と言われたのは二十代はじめ。それから十年あまり経ち、やっと出会うことが出来た。それでも遅すぎることはない、鮮烈な出会いだった。
せんだいメディアテーク月例上映会『ATG現在と未来#2』において上映された「サード(東陽一監督)」。東監督と同じく日大で映画を学んだ富永昌敬監督(「パビリオン山椒魚」)のトークもおもしろく、非日常であるはずの少年院生活がより日常的で、非行や社会生活の方がふわふわとした非日常にみえるという「ねじれ」から、峰岸徹演じるヤクザのわかりやすさまで多岐に及んだ。思わぬ展開に爆笑しつつも、改めて気付いたこと、考えたことがたくさんあった。いくつかを書き留めておきたい。

1 群像劇が活写するもの
物語は、少年院で淡々と生活する主人公・サードを軸に、サードを取り巻く個性豊かな少年たちと、サードが犯罪に至るまでの経過を描く。トークでは、少年たち一人ひとりにくっきりとしたキャラクターを持たせた描き分けの効果(ニックネームが端的に特徴を表し、(坊主頭ゆえに)混同しかねない彼らの「違い」を際立たせている。また、彼らは皆少年院での性向から名付けられているが、院内生活になじまず距離を保っているサードだけは「中学で野球部だったから」という噂だけで「サード」と記号化され、さらに特化されている。)が話題となった。
元刑務官という経歴を持つ原作者・軒上(城?)伯が描く少年像は驚くほどリアルで、古さを感じさせない。そして、多角的に少年たちを捉えた群像劇という構造が、唸るほどに「効いて」いる。もしかすると、対象となっているのは複数の少年たちではなく、全てひとりの少年が持ちえる多様な側面であり、あえて群像劇とすることで、各側面を丁寧に描いているのではないか?と思われた。
十代は、自我拡散の時期などと言われるように、さまざまな場面・さまざまな時期に、それまで自覚していなかった「自分」が立ち現れる。そして彼らは、新しい自分と折り合いを付けることに追われ、エネルギーを費やす。
「サード」の回りにいる「短歌(いつも短歌で心情や状況を俯瞰するニヒリスト)」「オシ(号令さえ拒否するだんまりや)」「2B(鉛筆をかむことでうっぷんばらしする軟弱者)」「紙飛行機(紙飛行機作りに熱中し、自由を夢見る。)」と呼ばれる少年たち。…実は、少年たち全てが、サードのような扱いにくさ、短歌のような冷めた視線、オシのような不器用さ、2Bのような弱さ、紙飛行機のようなのめり込む姿勢(そして挫折)を持っているのかもしれない。

2 少年なのに「おやじ」?
短歌を詠むのはもとより、ボランティアで来訪した女子大生たちを品定めする少年たちの会話が十代とは思えない等々、彼らの「おやじ」ぶりも話題になった。
あくまで私見だが、彼らの「おやじ」ぶりも、それなりにリアルだと思う。彼らは、一人ひとりは「かわいらしく」歳相応な振る舞いをするが、集団となると一変し、仲間の手前…という思いが先立つのではないか。不良文化に「背伸び」「大人ぶる」という要素があるうえに、人に弱みを見せまい、上に見られたいという気持ちが、上滑りすると「おやじ?」になるかもしれない。さらには、ある意味(非行・犯罪を介して)社会経験が抱負過ぎるため、偏って老成してる場合も考えられる。

3 書き留める意味
短歌でも日記でも手帳でも、折にふれて何かを書き留めるのは、単調に思える一日を記憶に「刻みつける」ための、本人なりのやり方ではないか、とふと思った。内容にかかわらず、書き留める行為そのものに意味があるのだ。無人島に漂着したロビンソン・クルーソーは、何年も何年も、日付を表すナイフの傷を毎日木の幹に刻み続けていた。その姿が、「短歌」と呼ばれる少年に被った。

…ぜひ、映像で・文字で、「サード」に出会ってほしい。それは、かつての自分との再会であると同時に、新たな自分との出会いかもしれない。

cma
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「サード」1977年
監督:東陽一
原作:軒上伯
脚本:寺山修司
出演:永島敏行、森下愛子、島倉千代子、峰岸徹
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2008年03月03日

左目が捉えた蝶の夢〜「潜水服は蝶の夢を見る」(ジュリアン・シュナーベル監督作品)

不思議な明るさと美しさに満ちた作品だ。南欧のからりとした空気と日だまりのぬくもり、吹き抜ける潮風の心地よさを思わせる。残された機能を温存するため、傷ついた右目を縫い閉じられ、視界を半分奪われた時はさすがに胸が痛んだが、全体に漂う深刻さはない。いわゆる闘病ものとはくっきりと一線を画し、リハビリ風景さえダンスのように映し出される。
何より魅力的なのは、主人公の心情と見事なまでに一体化した映像だろう。美しい女性スタッフの胸元の陰影は夢のように甘く、謎めく。スカートの裾はうっとりと揺れる。駆けてくる子どもたちの髪は、せつないまでにまぶしく光り輝く。
そして、ふっと広がるかろやかな空想(もしくは妄想)。中でも私が気に入っているのは、気の利かない看護師にテレビディナーを邪魔され、ため息まじりに思い浮かべる豪華なディナーだ。美しい女性編集者とレストランで「偶然」出会い、二人はめくるめくひとときを過ごす。想像の自由は誰にも奪えない。周りの都合で現実に引き戻されても、彼の作り出すもう一つの世界は、常に現実世界を彩り、彼にいたずらっぽく囁きかける。
彼はもう、愛するものたちに手で触れることはできない。けれども、彼のまなざしは深くそれらをとらえ、惜しみなく愛情をそそぐ。それは、彼にしかできず、彼しか知りえないことがら。…そんな甘美な秘密が、もどかしく、重荷に感じられてしまうときもある。けれども彼には、素晴らしい理解者がいた。
老いて車椅子生活を余儀なくされていた父親と、彼は思いがけず同じ立場となった。一足先に孤独を知った父は、彼をあたたかく受け止め、二人はかつて共に暮らしていた頃以上に互いを思い、心を交わす。そんな父息子の邂逅は、きらめくエピソードの連なりの中でも、特に観る者をゆさぶり、深い余韻を残す。
いつまでも観ていたい。でも、いつでも心の目を開けば観る(思い出す)ことができる。「蝶の夢」は、私たちの日常に連なる、豊かな体験をもたらしてくれる。

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「潜水服は蝶の夢を見る」
監督:ジュリアン・シュナーベル(「バスキア」「夜になる前に」)
原作:ジャン・ドミニク・ボビー
出演:マチュー・アマルリック、アンヌ・コンシニ
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2008年01月23日

映画の魔術師〜ウディ・アレン「マンハッタン」

今死んだら、きっと「巨匠」と称されるであろうウディ・アレン。彼は、ちまちました世界を、ちまちまと描き続けてきた。もう既に、彼独自の世界については語り尽くされているのかもしれない。でも、書き留めずにいられない。やっと私は、彼の魅力の秘密にふれ、発見できた気がしたから。
ガーシュインの名曲「ラプソディ・イン・ブルー」とともに、ぱーっと幕を開ける「マンハッタン」。彼はまたしても、目の前の素敵な恋人とは向き合わおうとせず、届き得ない恋に舞い上がり、振り回される。やっと目がさめた彼が全力疾走したとき、彼をこよなく愛してくれた彼女は、新しい世界へ旅立とうとしていた。彼女は、時が経てば戻ってくると告げ、彼は再会の決意を強く胸に秘める。
…でも、見える。ウディ・アレンに慣れ親しんだ私たちには、彼のその後が、見えてしまう。次作では、間違いなく彼は失恋している。それは一年後かもしれないし、ひょっとすると翌日かもしれない。
たぶん、その原因は彼にある。「ふがいない自分は、彼女との再会に値しない」とのたまい逃げているか、ふっと熱がさめて「どうせ実るわけがない」と勝手に見切りをつけているか、はたまた新たな恋に浮き足立っているか…。
つくづく、恋は盲目。人の性はそう簡単に変わらない。それでも、唯一無二の一途なきらめきを見せる瞬間は誰にでもあるし、映画という世界の中で、夢は永遠に続く。
ウディ・アレンは、私たちに、映画の魔法をちまちまと披露し続けてくれている。それは、なんて素晴らしいことだろう!

cma

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「マンハッタン」1979年
監督・脚本・出演:ウディ・アレン
音楽:ジョージ・ガーシュイン
出演:ダイアン・キートン、マリエル・ヘミングウェイ、メリル・ストリープ
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2008年01月19日

ふたたびの出会いと別れ〜「再会の街で」

いつの間にか、学生時代の友人との間に距離ができていた。毎日のように顔を合わせ、同じ出来事をくぐり抜けていた頃から、だいぶ時間が経ってしまった。
仕事を辞めた、転職した、結婚した、子どもが生まれた、離婚した、再婚した…そんな事実をやり取りしても、そのとき友が何を感じ何を考えていたかは、今の私にはつかみようがない。安易な共感や半端な助言は不要、ということだけはわかるから、せめてもの相づちを丹念に打つ。

この映画で再会する二人・チャーリーとアランも、時の隔たりが生んだ距離に戸惑いつつ、新たな友情を交わしていく。相手のために何かする、という定義は、彼らの友情に当てはまらない。それは、勘違いなお節介や自己満足でしかないから。相手のためと言いつつも、結局は、自分の影を傷ついた友に見い出しているのだ…と、アランは次第に気づいていく。
共に歌う、オールナイトを観る、中華を食べる…そんなひとときは底抜けに楽しい。それでいて、どこか寂しい。朝が来たらさめる夢のように、これは限りあるやすらぎなのか。かすかでも、その後に続く余韻はあるのか…確信が持てない。だからこそ、立ち止まりや沈黙を避けるように、二人は騒ぎまくっていた。
でも、それだけでは何か足りない。

彼らの友情は、「相手に何をする」かではなく、「自分は、相手にとってどんな存在なのか」と、自分の立ち位置を見いだすところに要がある。そこからさらに、「自分には何ができるのか」、に歩みを進めるのだ。
出会い、別れていく二人に吹き抜ける風。キックボードを思い切り漕ぎ出すとき、それはつめたくも心地よく、爽快に違いない。

cma
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「再会の街で」
監督・脚本:マイク・バインダー
出演:ドン・チードル、アダム・サンドラー、リヴ・タイラー
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2008年01月09日

※特報※Nアイルランド映画祭&プレイベント

来月初旬、北アイルランド映画祭が都内で開催されます。
さらに、今週末はプレイベントがw(゜o゜)w
尹慧瑛さんによる、北アイルランドにおける、歴史背景やアイデンティティ・ポリティックスについてなどのレクチャーと交流会とのこと。
要注目ですよ

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N(ノーザン). アイルランド・フィルム・フェスティバル2008
http://www.niff.jp/
会場:ユーロスペース(渋谷)
 http://www.eurospace.co.jp/
日程:2008年2月9日(土)〜2月15日(金)1週間
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N. アイルランド・フィルム・フェスティバル2008
プレイベント 第2弾
曜日:2008年1月12日(土)
【レクチャー】&【交流会】 at space NEO
「北アイルランドという〈場〉―映画の背景とその現在」
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2008年の2月に行われる1週間限定の映画祭、N. アイルランド・フィルム・フェスティバル2008(NIFF=ニフ)のプレイベントとして、第1弾にひき続き、レクチャー&交流会を行います!

2部構成の第1部はレクチャーです。2007年の3月に『暴力と和解のあいだ』を上梓された気鋭の研究者・尹慧瑛さんをお迎えいたします。北アイルランドにおいてどのような歴史や記憶、アイデンティティをめぐる問題があり、それらが人びとが関わりあうときの前提となっているか。北アイルランドの歴史や社会状況の入門編から、尹さんの研究となった「ユニオニズムの自己表象」、そして現在の政治状況や和平合意後の北アイルランドの状況までについて、レクチャーをしていただきます。
解決不可能とまで言われた北アイルランドが和平交渉を重ね、歴史的な自治政府回復にたどりついた、いま。北アイルランドはどうなっているのか、なにが起こっているのか。映画を見る上でその背景、風景を読み解くために、理解をより深めるためにも、とても貴重なレクチャーになると思います。
講師:尹慧瑛(ゆんへよん)さん
論文「北アイルランドのユニオニズムにおける自己表象:「包囲」された「ブリティッシュネス」」にて社会学博士号を取得。日本学術振興会特別研究員、東京外国語大学などでの非常勤講師を経て、現在、一橋大学COE研究員。著書に『暴力と和解のあいだ―北アイルランド紛争を生きる人びと』(法政大学出版局)、論考に「北アイルランド紛争を生きる」(『暴力の地平を超えて』(青木書店)収録)、「いくつもの<分断>を超えてー北アイルランドのエスニック・マイノリティと<社会の共有>」(『<移動>の風景』(世界思想社)収録)などがある。

第2部ではラム肉のシチューやパイ、ブシュミルズを使ったチーズケーキなど(予定)で、団らん交流会を持ちたいと思います。会場のSpace NEOはアットホームな雰囲気でいつもすてきな催しを行っています。おいしい料理とお酒やお飲物で心ゆくまで語りましょう!

曜日:2008年1月12日(土)
場所:スペースNEO
〒101-0052東京都千代田区神田小川町2-10-13 御茶ノ水ビル1F
JR「御茶ノ水」駅・聖橋口より徒歩5分都営新宿線「小川町駅」・千代田線「新御茶ノ水駅」・丸ノ内線「淡路町駅」、B5出口より徒歩1分
http://www.neoneoza.com/information/map.html

ーー第1部【レクチャー】ーーー
「北アイルランドという〈場〉―映画の背景とその現在」
時間:16:00-18:00  (開場:15:30)
講師:尹慧瑛さん
料金:無料
定員:40名
ーー第2部【交流会】ーーー
シチューやパイとケーキをご用意する予定です。
時間:18:00-20:00
(レクチャーや準備の関係で若干時間が変動する場合もございます)
料金:2000円(1ドリンク付き、2杯目以降は300円)

※お席が限られておりますので、【ご予約】をお願いいたします。
1部2部どちらかの参加ももちろん可能です。
大変お手数ですが、参加希望の方はメールかファクスにてご予約ください。
定員になりましたら、お断りする場合もございます。あらかじめご了承ください。

ご予約の方はメール、ファクスに以下をご記載ください。
メール:mail@niff.jp
ファクス:050-1118-9606
件名:1月12日レクチャー/交流会予約
1:お名前(複数名でご希望の方は、参加される方のお名前をご記載ください)
2:ご連絡先(電話番号又はメール)

主催・お問い合わせ:N. アイルランド・フィルム・フェスティバル2008実行委員会
Tel & Fax: 050-1118-9606
E-mail: mail@niff.jp
Web: www.niff.jp
協力:スペースNEO
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2008年01月03日

※追伸※…限りなく私的な「2007年・映画あれこれ」

<("O")>
あ!何と言うことか!大切なたいせつな作品を忘れておりました。
「河童のクゥと夏休み」
…観てよかった!観逃さなくて本当によかった!と、にこにこしながら夜道を帰ったことが思い出されます。なぜか21:40開始のレイトショー上映だったので…(^^;)
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